アーティストステートメントについて

ワタシはかれこれ3年ほど前から、構想も含めれば10年以上前から一つの作品プロジェクトに取りかかっている。通常は写真展なり作品集なり一定の完成の体をなしてから表に出すものだが、SAMURAI FOTOの写真展だったりイベントなど必要に迫られてすでにいくつかの作品を公開している。ここに掲載しているものもその内の1つだ。イベントなどで小出しにしているうちに一つのプロジェクトができあがってしまうのではないかと思ってしまう(笑)。

さてここに掲載したものは自然風景を被写体として ぱっと見で綺麗といってくれる人も多いキャッチーな作品だ。だが、このプロジェクトには都市風景も含め、もっと地味でなんでもないシーンも含まれている。作品の意図が綺麗だと思わせることにないからだ。もちろん綺麗と感じて頂けた写真は素直にそう思っていただければいいのだけど、作品プロジェクトとしては別の意図がある。それはアーティストステートメント(以下ステートメント)に記し、作品と一緒に必ず公開している。

写真展でよく見かけるパネル貼りの文章とフォトアートの世界で扱われるステートメントとではちょっと異なる。一般的によく見かけるのは、この被写体はこういうもので、こんなシーンで、こんな風に撮ってみました。それを感じてもらえれば、といったようなもの。これはただの作品解説でアーティストステートメントとはいえない。
もちろんアーティストステートメントとは絶対的にこういうものだ、という決まりがあるわけではないのだが、フォトアート界ではある程度の暗黙の必要要素がある。それは「自分が何を表現して何を伝えようとしているか」だ。
たとえば海の写真でプロジェクトを組み、ステートメントに「海は広いな、大きいな」と歌の歌詞のようなことを書いてもしかたがない。それは視覚的に写真からも伝わるものだ。その海の写真を通して何を表現しているのか、その思いを書き記すのがアーティストステートメントなのだ。

ワタシがこのアーティストステートメントという言葉を知ったのは学生時代。海外のあるフォトアワードに応募しようとした際、応募票に大きな記入枠が用意され項目名に”ステートメント”と書かれていたのだ。そのときは何を書いてよいのか分からず、周りの友人に聞いても「なんだろうね?」と聞き返された。それが最初だ。とりあえず被写体の解説を書き、展示方法の想定を書き応募した記憶がある。でも、受け取った側は笑ってスルーしたことだろう(笑)。なにしろステートメントになっていないのだから。

大学などで写真を教えていてステートメントを書かせるのだが、やはり大部分の方が最初は被写体やシーンの説明を書いてくる。「だから?」と聞き返すと言葉に詰まるケースが多いが、持ち帰って思考をまとめ、表現の目的をまとめ、しっかりとした構成で書き直してきてくれるとそれらしくなってくる。もちろん写真作品の作り込みと文章の作り込みは相互に、交互に行われて進化していくのが一般的で、1回書き直したくらいですぐに完成するものではない。
ワタシがここに掲載しているものも幾度となく書き直したとりあえずの完成型ではあるけれど、正式に発表するまでにはまだ修正を行う可能性もある。テキストを書いていると物書きになったわけではない、と思えてくるときもあるが、実はこのアーティストステートメントはフォトアート界では非常に重要視されるものなのだ。写真が良ければいいじゃないか、が通用しない世界なのだ。

SAMURAI FOTOという団体を通してこれを啓蒙することも多い。カメラやカメラ用品のアジア最大のイベントCP+(シーピープラス)ではEIZO社のブースで吉田 繁氏とこの辺りのステートメントや思想のトークセッションをしたこともあるけれど、どれだけの人に響いたのかは分からない。なにしろ日本の写真界では「写真で語る」「写真を読む」という方にウェイトが偏っているからだ。勘違いしないで欲しいのはそれも大切で、それが無駄とか違うと言っているのではない。それだけではダメなのだ。特に海外も含めたフォトアート界に作品を出していこうと思うなら。

もちろん形を壊すのも芸術。どのようなプロトコルがあったとしてもそれを壊して外すのもありだし、自由に創りあげるのもまた至極当然のことだ。広告写真と違って誰かに合わせるためにフォトアート作品を制作するのもそれはそれで滑稽なことだ。でも時間をかけて育まれてきたフォトアートマーケットがあり、受け入れられるためにはそれを知る必要も作家にはあるのだ。それに従うかどうかは各人の判断として。

SAMURAI FOTOでは海外へ作品をアプローチするためのノウハウを共有する団体です。URL= http://samurai-foto.jp/

ワタシは大学や、ワタシが顧問を務める写真クラブの特別セミナーなどではこのような観点から写真を構成する講座を行ったりしている。そこではどんなカメラを使って、絞りがどうとかISO感度がどうといったようなテクニカルな話はほとんど出てこない(あるいはそこをクリアした方を対象としていると言ってもいい)。ひたすらに自分の写真の表現のポイントを自ら見つけていくことに重点を置いているのだ。
そのような講座は受講者にとっては少々ヘビーな講座ともいえる。だからうちのクラブのアマチュアの方にいきなりそこまでのものを求めるようなことはしていない。多くのアマチュアカメラマンが被写体が好きでそれを撮っていたり、カメラやレンズなどの機材が好きで写真の世界に足を踏み入れているのが実情で、そういう方にいきなりこのような話をしても「はぁ?」と返されてしまうだろう。でもこういう世界があって、そういう見方をする写真の世界があるということはぜひ知っておいていただきたい。
機材やテクニックも大切。でも一番重要なのはその先にあるものであるということを。

最後にここに掲載した作品プロジェクト「記憶は嘘をつく」のステートメントのショート版を以下に記しておこう。

 

記憶というものは、オリジナルの出来事へと時間をさかのぼることによって生まれるイメージではなく、都合よく捻じ曲げられたイメージなのだという。取り出すたびに、まったく別物になってしまうほどその正確さを欠いていく。それが記憶だ。

 

私がこの作品で表現を試みているのは「曖昧な記憶」である。
単純化を極めた画面構成に平明な輪郭。記憶というものは所詮、その程度のものなのではないだろうか。その残された輪郭は喜び、悲しみ、慈しみ、憎しみ、驚きなど、人の感情の輪郭である。そのような曖昧な記憶による物事の判断は、時に身勝手な称賛を生み、他を断罪してしまい、戦争の原因にさえなってしまう。だからこそ過去だけにとらわれ、縛られるのではなく、未来を見据えて判断すべきではないだろうか。

 

写真は記録であって記憶ではない。本作品においては、「普遍な記録」を「曖昧な記憶」へと変換するために「水」を用いている。そもそもが曖昧であるのなら、思い出した瞬間に一期一会なのが記憶だ。となれば「水」によって洗い流され偶然成立した描写こそが、実は心象風景にもっとも近いものなのであると私は考える。

 

日本には古来より「水に流す」という言葉が使われ、過去の問題を不問とし、憎しみさえも押し留め 新たな未来を生みだそうとする文化がある。未来について語り合うことの重要性、それが私の作品のメッセージである。

(「記憶は嘘をつく」ステートメント)

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